「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、 また多くの人のための贖いの代価として、 自分のいのちを与えるために来たのです。」(新約聖書 マルコの福音書10章45節)

これはイエス・キリストが、十字架に付けられる数週間前に語られた言葉です。イエス様はこの言葉の中で、ご自身がこの世界に来た目的を語っておられます。それは、「自分のいのちを与えるため」つまり死ぬため、ということです。福音書には、イエス様が病人を癒したり、人々に食べ物を与えたり、神様について話したりしたことが記されています。しかしイエス・キリストにとって、「自分のいのちを与え」て死ぬことが、第一の目的であったのです。なぜならそれこそ、病気の癒しよりも、お腹が満たされるよりも、遥かに素晴らしい幸いを与えるものであったからでした。その幸いとは、神様から罪を赦され、地獄に行くことなく、神様とともに天国で永遠に生きることです。

それが本当に幸いなのか?

いのちあるすべてのものを創造した神様が本当におられます。私たち人間も神様と愛し合って生きるために造られました。しかし私たちは、恐れ敬うべき神様を無視し、神様が造った人を傷付け、欲望を満たすために人間が考え出した神々を拝んでいます。これは神様がお怒りになる生き方であり罪です。聖書に「罪の報酬は死です。」また「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とある通り、人は死んだ後に、神様から罪に対する罰を受けなければならないのです。ですから、この罪と死後のさばきの問題を解決しなければ、人間に本当の幸いはないのです。

本当のキリスト信者が証しできることですが、神様と共に生きる人生には感謝と喜びがあります。死を目の前にしても希望があります。この幸いをぜひ知っていただきたいのです。

なぜキリストの死が必要であったのか?

それではなぜ、私たちの罪が赦されて天国に行くために、イエス・キリストの死が必要であったのでしょうか? それは、イエス様の死こそ、死んでさばきを受けるべき私たちの身代わりであったからです。

神様は正しく公正な方ですから、罪を見逃して、罪人を赦すということはできません。しかし、罪が正しく処罰され、神様に罪の代価が支払われたなら、神の聖なる怒りは宥められます。そして、私たちの罪は赦されます。ですから、私たちに代わって罪のさばきを受け、死んでくださる方が必要なのです。しかもその方は、罪が一つもない完全な人でなければなりません。そのような方はイエス・キリスト以外にいません。この方は人間となられた神の御子であり、罪一つない完全な方だからです。

イエス・キリストのいのちは「多くの人のための贖いの代価」でした。贖いの代価とは、奴隷を解放するための代金を意味する単語です。私たち罪人を、神様の怒りとさばきから解放するために、神様に支払われる代価がイエス様のいのちであったのです。イエス様はすべての人の罪を引き受け、その罪に対する罰を代わりに受けて十字架で死ぬことで、父なる神様に贖いの代価を払ってくださったのです。イエス様は十字架で息を引き取る前に「完了した」と叫ばれました。この言葉は、負債を「支払った」という時にも使われました。イエス様が、私たちの罪の代価を一度で完全に支払ってくださったのです。その証拠に、キリストは死後三日目の日曜日の朝に、からだをもって復活されました。そして、四十日後にその姿で天国に昇り、神の右の座に着かれました。もう二度と死ぬことはありません。

救われるために必要なことは?

まず、自分がこれまで神様に対して罪を犯し、地獄での刑罰を受けるべき罪人であることを認めることです。そして、イエス・キリストだけが、自分の罪の代価を完全に支払ってくださった御子なる神、唯一の救い主だと信じ、受け入れることです。イエス様を信じる人だけが、罪の赦しと永遠のいのちを受けます。

「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」(新約聖書 ヨハネの福音書3章16節)

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。」(新約聖書 テモテへの手紙第一 2章4~6節)

イエス様はなんと素晴らしい目的を持って、天国からこの世界に来てくださったことでしょうか。イエス様を信じて、罪の赦しと天国に行ける救いを受け取る方になってくださいますように。